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ルビヤンカの壁の落書き

あらゆる方面の事柄を気の赴くままに書いていこうかな、と。

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戦史シリーズ第3回 「中世ヨーロッパの攻城戦 その1 交渉」 

 久しぶりの更新となります。今回は意外と知られていない(かも?)中世ヨーロッパの攻城戦について記事を書いてみたいと思います。教科書レベルでは中世の戦闘は一部の例外、例えばコンスタンティノープルの包囲などを除けば殆ど野戦のみが知られるのみです。イングランドの歩兵、弓兵を組み合わせた統合戦術の結実したクレシー、ポワティエ、そしてアジャンクールの戦い。しかし、当時戦争の帰趨を決定するのはこれらの野戦よりもむしろ攻城戦による拠点攻略にこそあったのです。城というものは往々にして交通の要衝に存在するものなので、そこを支配するということはその周辺の権益を手に入れることに繋がるからです。

 意外に思われるかもしれませんが、この時代では城の守将が形勢不利と見れば相手が異教徒でもない限りは攻撃側との交渉であっさりと城を明け渡してしまうことがしばしばありました。これには当時の封建制度や価値観と関係があります。というのも、たいてい城の守将は主君の庇護を受ける存在であり、この契約関係が「主君の庇護と臣下の軍事力提供」という双務的なものであったからです。騎士道物語にしばしば描かれるような関係というのは殆どの場合幻想で、契約関係はどちらかが義務を果たさなければもう片方が破棄してしまうというのが常でした。そのため、しばしば西洋の封建制度はドライで契約的だと言われるのです。この場合は、城が包囲されても守将を一向に助けようとしない主君は、臣下を見捨てていることになるので、そのような契約相手のために命をかけて城を守るという必要はないということになります。自分の命が大事ですから。おそらくこの現象には、「臣下の臣下は臣下にあらず」という封建的無秩序も関係することがあったに違いないでしょう。また、守将が戦闘を放棄したとしても一応交戦していれば「名誉の降伏」というわけでそれなりに丁重に扱われる可能性もあったのです。

 攻撃者と防御者との間には、こういった思想から「防御者に援軍がいついつまで来ない場合は攻撃者に城を明け渡すこと」という協定が結ばれることがありました。これには先程述べた背景以外にも、攻撃者による略奪を防止するという目的がありました。この当時の攻城戦は、攻撃者が一箇所にとどまらなければならないことから、彼らの間にし尿などの処理、食料の調達に問題が生じ結果として士気の低下、疫病の流行などが起こりやすかったのです。そういった環境では攻撃側の騎士や従者たちは非常に我慢を強いられることになるので、城が陥落した暁には衝動的な略奪、暴行などが非常に起こりやすい、いや必ずと言っていいほど起こったのです。攻撃者にとっては兵士たちの生命や士気のため、防御者にとっては領地の安全と契約の問題から協定というものは両者にとって有益である場合があったのです。
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Posted on 2011/09/11 Sun. 17:03 [edit]

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歴史雑記「ターボル派滅びの一幕」 

 ターボル派とはローマ・カトリックの腐敗に抵抗するフス派の一派で、フス戦争時にそのリーダーの一人であるヤン・ジシュカによって中世末期最強の軍団になるも、後にフス派内の内紛によって消滅してしまった派閥です。今回はそれに関しての記事となります。

 彼らは貧農や一般市民で構成され、ボヘミア中部の丘陵地帯に自分たちの要塞化された都市すなわちターボル(イエス・キリストが変容した山に由来)を建設し、原始共産制まがいの体制を敷いていました。というのも、一度このターボル派に参加すると全ての私有財産を集団の所有物として納めなければならなかったからです。戦乱で農地を離れ、失う物などほとんどない貧農にとっては、自分の農具が公有化される以上に宗教的、そして物質的な見返りがあるのでしょう。ヤマギシを彷彿とさせますが……。また、この派閥の最高意思決定機関は複数の高位聖職者と、ヤン・ジシュカらの軍事指導者の会議であったようです。
 この派閥の教義上の最大の特徴は、中世的な封建的階級制度に対する強い反対です。「この世にはもはや主人も下僕もない!」と宣言し、人々を無原罪の時代へと回帰させることを主張していました。さらに、「誰もが聖書を自分で解釈することが出来て、その議論を戦わせることができる」権利を主張している所にも封建制に対する強い反発が伺えます。この派閥に所属する多くの聖職者がスコラ学の影響を強く受けていたにも関わらず、それとは乖離した教義となっているところが非常に興味深い派閥であります。

 そんな彼らを一躍有名にしたのは、名将ヤン・ジシュカに率いられたその精強な軍隊です。しかし、貧農や市民はろくな軍事訓練を受けていません。それが、どのようにして百戦錬磨の騎士軍団たる十字軍を打ち破ったのでしょうか。答えはかなり前の記事「フス戦争後編」にありますので概要だけを述べると、「強化馬車を並べた陣地や野戦築城で騎馬突撃を防ぎ、大型のクロスボウや鉄砲、大砲を駆使して敵を撃破した」ということです。また、有利な戦場を選定する将才がジシュカにあったことも間違いありません。
 このまま戦争が終了し、フス派が自らの主張を通すことが出来ればそれで万々歳なのですが……。相手は教皇庁と神聖ローマ皇帝、そういうわけにもいきません。教皇にとっては自分たちの教義こそが正統なのであり、妥協は神の名において決して許されないのです。戦争は長期化し、フス派の一派で穏健派であるウトラキスト(語源はラテン語の二重聖餐)は敵と妥協して戦争を早期終結させることを画策しました。というのも、彼らの多くは貴族や富裕市民であったため、戦争による農地の荒廃や商取引の停滞により困窮しかねなかったからです。しかし、これはターボル派とっては許されることではありません。これにはいくつかの理由があります。
 第一に、経済的な要求が挙げられます。というのも、教皇との妥協が成立し二重聖餐が認められたといっても自分たちの暮らし向きが良くなるわけでもなく、いずれは元の耕作地に戻る羽目になるからです。さらにフス戦争後期、特にヤン・ジシュカの死後には彼らの一部が盗賊化し、チェコ国外、果てには友好国のポーランド領にまで進入して略奪を働くことで富を得ていました。今更こんな美味しいことはやめられないわけです。元の理念からは外れていますが彼らにとって大事なのは日々の糧なのです。とにかく、現状を維持するためには略奪をし続けるか、それに相当する富を得るしかないのです。
 第二に、宗教的な要求が挙げられます。一度封建制に対する反旗を翻した手前、おいそれとそれを放棄することはできないのです。特に当初の理念を堅く守っていた首脳部にとって、ターボルというコミュニティを延命するためには教皇から大きな譲歩(ウトラキストが求める以上のもの)を引き出すことが必要不可欠なのです。
 ここから生まれるのはもちろん、フス派の内部対立です。フス派には様々な階級の人間がいましたから、それぞれの経済的な要求によって各派閥の教義がある程度左右されたりするのです。対話を求めるウトラキストをはじめとする穏健派と、より大きな妥協を引き出す為の実力行使も辞さないターボル派をはじめとする急進派の対立は不可避だったと言えます。穏健派は友好国ポーランドから王を迎えるための陰謀を展開したりなど……。
 両者の対立を抑えうる強力な指導者も欠いた中、彼らは衝突します。往時の勢いを失い、半強盗団となったターボル派はリパニの戦いに敗北し壊滅してしまいました。穏健派が勝利したのです。

 教皇や皇帝は決して彼らの原始共産制のようなコミュニティを許すはずもなく、強盗団化して富に溺れた者たちも現れ、穏健派とも対立したターボル派。結局のところ、彼らは自らの主張を認めさせるために、または自らの腹を肥やすために、彼らが壊滅するまで決して終わることのない戦闘を戦い続ける運命にあったのです。

P.S. 題名ネタを提供していただいたakiyamaGM氏に感謝。

訂正(9/11)
ウトラキストとは、チェコ語ではなくラテン語での「二重で聖餐される」という言葉から来ているようです。ご指摘に感謝致します。

Posted on 2011/07/23 Sat. 11:16 [edit]

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武器・防具シリーズ第4回 「バックラー」  

 すみません、ずっとサボっておりました……。気をとりなおして武器・防具シリーズ第4回はこのシリーズ初の防具として「バックラー」を取り上げたいと思います。これはRPGなどでもおなじみなので、知っておられる方もいるでしょう。ですが、意外とその細かい使用法や戦術との関わりについては知られていません。今回はそこに焦点を当てたいと思います。

 buckler

 アイルランド製のバックラー。「オドノヴァンの盾」とある。

 この盾の最大の特徴は、小型であるために「腕に括りつける」のはもちろん「手で持つ」ことでも活きるという点です。それゆえ防御という目的はもちろんのこと、他の盾とはまた違った使用法が存在しているのです。それを挙げていきましょう。

1.殴れる
それほど大きい盾ではない(直径15~45cmほど)ので、取り回しが容易でこれそのものを武器として相手に殴りかかることが可能でした。特にこれが鉄製のものだとかなりの痛撃になったことでしょう。相手に殴りかかることで、敵は防御に回らざるを得ずその隙にこちらが右手の剣を下から突き上げれば有効打を与えられるのです。大きなカイトシールドだと、大きくて武器として使用するのには少し問題があります。
2.手元を隠せる
接近戦では、1秒1秒が重要です。ですから、敵にこちらの次の一手を読まれないようにすることは戦闘を有利に展開する上で重要となります。そのために右手をこのバックラーで隠すことでこちらが次にどの攻撃に出るのかを見せないようにするのです。大きめの盾でも可能ですが、これだと素早く行えるのもポイントでしょう。
3.封じられる
、敵の剣を持つ手をこの盾で抑えつけることができます。こうすることで、敵の抵抗を押さえ生け捕りにすることも容易だったでしょう。取っ組み合いになったときも有効で、敵を素早く封じ込めることができるのです。

 こういった特徴のあるバックラーは、ほぼ全世界で使用されていたと言っても過言ではないでしょう。特に軽歩兵の運用が盛んであったスペインやアラブ世界などが有名でしょうか。一方で馬上で戦闘するには下方向への防御がし難く、西洋の騎士はカイトシールドと呼ばれる凧型の盾を使用していました。
 こういった剣とバックラーを持った兵士が中核となって戦闘したのは中世のスペイン王国です。彼らはスペインにおいてロデレロと呼ばれていました。もともとイベリア半島は山地が多く、野戦よりも攻城戦が多かったために取り回しの悪い大きな盾よりも小さなバックラーが好まれたのでしょう。例えば新大陸へと向かったエルナン・コルテスの一団の80%近くを彼らロデレロが占めていました。特に彼らは、崩れかけた敵の槍陣形をさらに崩壊させ敗走に追い込むのに優れていました。身動きの取りやすいロデレロに、長さ5mもするようなパイクでは取り回しが悪すぎ、対抗できないからです。しかしロデレロには決定的な弱点があります。軽装で身動きが取りやすい(剣とバックラーの他に鉄兜、鉄製のブレストプレートを装備していました)がために騎兵の突撃に対しては無力だったのです。そのため、1530年ごろに採用された新しい陣形「テルシオ」(マスケット兵とパイク兵を組み合わせた方陣)では彼らの居場所はなくなってしまったのです。

Posted on 2011/07/17 Sun. 21:47 [edit]

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戦史シリーズ第2回 「1812年ロシア戦 前編」 

 私用で1ヶ月以上放置してました。今回は大分時代を移して「1812年ロシア戦」について簡単な解説をします。1812年は、ナポレオンがロシアへと侵攻し、そして大きな損害を出して退却した歴史の転換点となる重要な年でした。どうして、精強を誇ったナポレオンの軍隊があっけなく敗れ去ったのかを明らかにしていきます。
 
 まず、なぜナポレオンが戦争を始めたのか、から考えていきましょう。簡単に言うと「ロシアが大陸封鎖令に従わないから」です。大陸封鎖令というのは、ナポレオンが1806年に発令したイギリス経済封鎖政策で、これまで経済の中心であったイギリスではなくフランスと諸外国を貿易させるための方策でした。これはイギリスとの貿易で稼いでいたヨーロッパ諸国にとっては痛手で、ナポレオンへの不満は募るばかりでした。
 そのなかでもロシアは特にイギリスとの貿易で経済を成り立たせていたので大きな痛手を受け、国内での不満が高まっていました。ロシア領のバルト海沿岸の諸港では木材、小麦、鉄鉱石といった原料をイギリスに輸出する代わりに工業製品をイギリスから輸入していたからです。代わって貿易相手となったフランスはロシアが産出する原料を購入してくれなかったためにロシアは貿易赤字に苦しみ、イギリスとの密貿易を始めざるを得なかったのです。さらに、フランスのポーランド独立を助ける政策などで政治的方面からも不満があったことも見逃せません。
 ロシアの密貿易が面白くないナポレオンは、ロシアへ侵攻をすることでこれを止めさせようとしたのです。自信満々であったナポレオンは、腹心ナルボンヌ伯に次のように述べたと言われています。

「ロシア人は迷信深く、頭は単純である。奴らの心臓部、つまり大モスクワ、聖都モスクワをぐさりと突けば、忽ちにして無気力で盲目なロシア民衆を押さえ込めよう。」

 現在の我々には、このナポレオンの判断は愚かとしか言いようがありませんが、権力の絶頂にあった彼がこのように驕り高ぶるのは当然の成り行きであったとも言えます。彼の頭の中では「敵の野戦軍を機動力を活かして撃破すれば交渉のテーブルにつける」というシナリオがすでに書かれていたのでしょう。しかし、侵攻の事前調査を担当したフランス軍将校たちはこぞって反対します。「ロシアで戦えるものはロシア人だけだ」と言い切った者さえいます。ナポレオンの遠征に将校たちはうんざりしていました。
 さらに、フランス民衆の間でも厭戦気分が蔓延していました。戦中の日本のような「醤油を飲んで徴兵を忌避する」行いが横行しています。例えば、既婚者は徴兵されないということで18歳の男が60歳の女と結婚したという記録が残っています。戦争から逃げる為なら婆さんと結婚して一夜を明かすことまで考えるのです。また、親指を切り落としたり(銃の操作が出来なくなる)前歯を折ったり(火薬の薬包紙を食い破れない)、替え玉を雇ったり、医者を買収して偽診断書を作るなどということが普通に起こっていたようです。身体を兵士として不適格にするため、発泡薬で腕や足の皮膚を傷つけた後、ヒ素を溶かした湿布を当てて筋肉を麻痺させたということまであったようです。また、徴兵のくじに当たってしまった男たちは入営初日で1割も脱走したり、徴兵される者たちが暴動を起こして竜騎兵部隊と衝突したりということまで起きています。そういった感情を解さないのが天才ナポレオンの天才たるゆえんなのでしょう。
 これがフランスの衛星国となればことは尚更ひどかったでしょう。「ナポレオンのせいで物価が上がって大変なのに、さらには戦争に行けと!ふざけんな!」と怒るのが当然です。なんの為に戦っているのやら……。ナポレオンの大陸軍には衛星国からかき集められた兵士も多くいましたから、彼らのやる気がないのも当然の成り行きでしょう。例外的に、「ポーランド独立の為にロシアを倒そう!」というワルシャワ公国の兵士たちは非常に戦意が高かったのですが。彼らは祖国を分割した宿敵に一泡吹かせるべくやる気満々でした。さらに、ナポレオン直属の近衛兵たちも士気が高く、この戦争を通して多くのピンチで大活躍しました。
 こうして集まった大陸軍の兵士たちの内訳は次の通りです。この数字には諸説ありますがとりあえず以下の数字をあげておきましょう。

フランス兵 450,000
ポーランド兵 95,000
ドイツ兵 90,000
イタリア兵 25,000
スイス兵 12,800
スペイン兵 4,800
クロアチア兵 3,500
ポルトガル兵 2,000

 この大軍隊に対して、ロシアは治安維持にスウェーデンやオスマン帝国の力を借りたり、民兵やコサック兵を大量にかき集めて戦争を戦っていきます。特に、武器の不足から戦利品として飾りとなっていた17世紀のオスマン帝国の大砲すら民兵部隊では使われていたそうです。民兵だけで、数十万人もの兵士がかき集められ、コサック兵90,000や正規兵を合わせると大陸軍を大幅に超える兵力を9月ごろまでに揃えることに成功します。ナポレオンの侵攻が1812年の6月ですから、およそ3ヶ月ほどでこれほどの大動員を行ったということになります。コサック兵や民兵はフランス軍の補給や小さい部隊を常に脅かし続けました。特にコサック兵はその精強さで有名で、騎兵としての機動力を生かした補給路の襲撃で活躍しました。フランス兵とは違い、狩猟に慣れており食料の調達にも長けていたのです。
 また、よく言われるロシア人の素朴さから来る民衆の戦意の高さも見逃せません。戦争で略奪を受け畑は荒らされ、彼らは「オラたちの畑を荒らすな!許さねえだ!」と言わんばかりに時折フランス兵を襲撃して殺害することもありました。もっとも、民衆も一枚岩ではなくフランス軍に物資を売って儲ける者もいました。

 この戦争でナポレオンが考えていたのは「緒戦でロシア軍と決戦を行って、決定的勝利を収めてロシア軍の戦意を削いで降伏させる」ことにあったようです。この方針はロシア軍も同じく決戦を望むか、もしくはそういう状況に追い込まれてしまったときにのみ有効となります。しかし、ロシア軍は開戦の日から有名な焦土戦術をとって慌てて逃げ出していきました。この退却が作戦なのか、それともナポレオンが怖いという理由から起こったものなのかというのは不明です。ロシア軍も一枚岩ではありません。ロシア第1軍の指揮官バルクライ・ド・トーリは焦土戦術の推進者であったのに対し、第2軍のバグラチオンは主戦派でした。バグラチオンはもともと激しい気性の持ち主であったためか、ド・トーリの参謀長に激しく抗議したほどです。
 ともあれ、ロシア軍は一日60kmというとんでもないスピードで退却したために、早く決戦を挑みたいフランス軍は強行軍を行います。実は、往路の強行軍だけで兵力の半数以上を、しかも最初の2ヶ月ほどで失っているのです。というのも、夏のロシアというのは案外暑くて(大陸性気候なので)、強行軍が兵士たちの体力をじわじわ奪うからです。内陸ですから新鮮な水もなくのどの渇きに苦しめられました。信じられませんが、一説によると遠征2日目で早くも数万人の落伍者を出してしまったと言います。もちろん、馬も疲れて1kmの間に少なくとも50頭、一説にはその倍が倒れてしまいました。さらにはものすごい砂埃が舞い上がり(運動会を想像してください)全く前が見えなかったようです。さらには自殺者も確認されるだけで数百人規模で出たようです。
 つまり、冬将軍よりも「夏将軍」の方が、兵士たちを多く落伍させてしまったのです。

 こんな幸先の悪いスタートを切ってしまった大陸軍はどうなるのでしょうか?次回に続きます。

Posted on 2011/05/28 Sat. 22:07 [edit]

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武器・防具シリーズ第3回 「石とその投射兵器」 

 皆様のおかげで第3回となりましたこの武器・防具シリーズですが、今回は趣向を変えて「石」とその投射兵器について解説しようかな、と思っています。これまで2回がいずれもポールアームについて扱っていましたがここで趣向を変えて
 
 石が人間、それも猿人の時代から使われ続けている人類最古の武器なのはよく知られていることです。最初は石同士を打ちつけて成形したり、石を磨いて人間の望むように成形することも多く、現在のように投げつけるものとしての性格だけではありませんでした。穂先が石の槍や、石斧がその一例でしょう。
 
 しかし、石のそういった利用法は青銅器や鉄器の登場によって次第に衰退します。より強度が高く、鋭利にすることができるので武器の材料としてより有用だったからです。とはいえ、飛び道具としての石はこれから衰退するどころかむしろ発展を遂げていくことになります。

 まず、我々が「パチンコ」として知られるY字型の枠に弾力性のあるひもをくくって、その弾力を利用して石を遠くへ飛ばすものが挙げられます。また、長方形の布の中央に石を巻いて、遠心力を利用して遠くに飛ばすものも非常に長い間使用されつづけています。投射はしていませんが、映画「フル・メタル・ジャケット」では石鹸を撒いた布で微笑みデブを殴りつけているシーンだってあるのですからね。
 
 さらに、古代ギリシャ人が発明したカタパルト(弾力のある木や生物の繊維の張力、場合によっては人力とてこの原理を利用したもの)、そしてローマ人たちがよく用いた大きなクロスボウのようなバリスタと呼ばれる大型の機械を使えば、人間の力では到底投げつけることができない大型の石を遠くに投射することが可能になりました。こういった兵器は敵の密集陣形に射撃したり攻城戦で敵の城壁を打ち破る際に非常に役立つもので、地味ながらも戦争には欠かせないものと言えます。ちなみに、これらの兵器は石だけではなく他のモノも投げつけられました。
 
 時代が進み、中世になると前述の兵器に加え、また新たなタイプの投射兵器が東ローマ帝国で生み出されます。トレビュシェット、です。伝説によるとアルキメデスがすでにそれを発明したとされていますが、その後の資料に全く見られないことから信ぴょう性は薄いとされています。現存する資料の中では、彼らが初めてトレビュシェットを発明して攻城戦で運用したとされています。11世紀末に、現在のアナトリア半島西部のニカイアという都市での攻城戦で、ビザンツ軍が人力でテコの原理を利用して石を投射したのが年代記に記されているのがそれにあたります。では、解説のために図を挿入します。

Trebuchet

 これは、先程の人力タイプと違い、カウンターウェイト式と呼ばれるタイプのトレビュシェットです。こちらのほうがパワーも大きいために一般的でした。図の左上にあるように、滑車(ウィンドラスと呼ばれる)などを利用して錘を引き上げます。それを容器に入れることで、腕木はシーソーのように右へと傾きます。すると、テコの原理で左側にひもでくくりつけてある(これの弾力を利用する)石が飛んでいくというのが原理です。そして、上がってしまった腕木を元に戻すために左側を引っ張るのです。
 
 この機構を利用すると、大きな石でもより遠くへと投げつけることができるのです。使えるエネルギーが大きいので、攻城戦では先ほどのものよりも頼りとなったのです。ビザンツのギリシャ人たちがはじめて使用した後にはセルジューク軍、西欧の諸侯へとまたたく間に広まり、火薬が発明された後もしばらくは信頼できる攻城兵器として利用され続けました。しかし、これにも欠点があり、あまりにも大きいために運搬が難しくで、資材を現地で手に入れてその場で組み立てる必要があったため、準備に時間がかかったということです。投射するのは石だけでなく、疫病を発生させる目的で死んだ生物を投げつけたり、軍の士気を下げる目的で人の首を投げつけたりもしたようです。
 
 火薬が発明された後も、人間はまだまだ石を戦争に使用し続けました。現在のように複雑で精巧な弾丸を製造することは不可能だったので、射石砲の弾丸にはこれまた石が使用され続けました。例えば、1453年のコンスタンティノポリス包囲の際、オスマントルコ軍はハンガリー人の技術者ウルバンを雇い、巨大な射石砲を使用してコンスタンティノポリスの城壁を攻撃しました。しかし、非常に命中率が悪く実際の陥落の原因は鍵の掛け忘れであったので、そこまで貢献したわけでもなかったようです。そして、弾丸を鉄で鋳造できるようになって、ようやく石は攻城兵器としての役割を終えたと言えるでしょう。
 
 このまま石は争いの歴史から姿を消してしまうのかというと、そういう訳ではありませんでした。火薬が発明された後となっても、銃を持たない人間にとって石はそれなりに有効であり続けました。特に、銃を持たない市民たちが何か暴力的な行動を起こそうとするとき、火炎瓶の投擲と共に投石などが起こるのが常です。デモ活動を思い起こしてもらえると良いと思います。これまでも、そしてこれからも、石は人間にとっても最も身近でかつ危険な兵器であり続けるのではないでしょうか?
 

Posted on 2011/04/27 Wed. 21:55 [edit]

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