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ルビヤンカの壁の落書き

あらゆる方面の事柄を気の赴くままに書いていこうかな、と。

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戦史シリーズ第2回 「1812年ロシア戦 前編」 

 私用で1ヶ月以上放置してました。今回は大分時代を移して「1812年ロシア戦」について簡単な解説をします。1812年は、ナポレオンがロシアへと侵攻し、そして大きな損害を出して退却した歴史の転換点となる重要な年でした。どうして、精強を誇ったナポレオンの軍隊があっけなく敗れ去ったのかを明らかにしていきます。
 
 まず、なぜナポレオンが戦争を始めたのか、から考えていきましょう。簡単に言うと「ロシアが大陸封鎖令に従わないから」です。大陸封鎖令というのは、ナポレオンが1806年に発令したイギリス経済封鎖政策で、これまで経済の中心であったイギリスではなくフランスと諸外国を貿易させるための方策でした。これはイギリスとの貿易で稼いでいたヨーロッパ諸国にとっては痛手で、ナポレオンへの不満は募るばかりでした。
 そのなかでもロシアは特にイギリスとの貿易で経済を成り立たせていたので大きな痛手を受け、国内での不満が高まっていました。ロシア領のバルト海沿岸の諸港では木材、小麦、鉄鉱石といった原料をイギリスに輸出する代わりに工業製品をイギリスから輸入していたからです。代わって貿易相手となったフランスはロシアが産出する原料を購入してくれなかったためにロシアは貿易赤字に苦しみ、イギリスとの密貿易を始めざるを得なかったのです。さらに、フランスのポーランド独立を助ける政策などで政治的方面からも不満があったことも見逃せません。
 ロシアの密貿易が面白くないナポレオンは、ロシアへ侵攻をすることでこれを止めさせようとしたのです。自信満々であったナポレオンは、腹心ナルボンヌ伯に次のように述べたと言われています。

「ロシア人は迷信深く、頭は単純である。奴らの心臓部、つまり大モスクワ、聖都モスクワをぐさりと突けば、忽ちにして無気力で盲目なロシア民衆を押さえ込めよう。」

 現在の我々には、このナポレオンの判断は愚かとしか言いようがありませんが、権力の絶頂にあった彼がこのように驕り高ぶるのは当然の成り行きであったとも言えます。彼の頭の中では「敵の野戦軍を機動力を活かして撃破すれば交渉のテーブルにつける」というシナリオがすでに書かれていたのでしょう。しかし、侵攻の事前調査を担当したフランス軍将校たちはこぞって反対します。「ロシアで戦えるものはロシア人だけだ」と言い切った者さえいます。ナポレオンの遠征に将校たちはうんざりしていました。
 さらに、フランス民衆の間でも厭戦気分が蔓延していました。戦中の日本のような「醤油を飲んで徴兵を忌避する」行いが横行しています。例えば、既婚者は徴兵されないということで18歳の男が60歳の女と結婚したという記録が残っています。戦争から逃げる為なら婆さんと結婚して一夜を明かすことまで考えるのです。また、親指を切り落としたり(銃の操作が出来なくなる)前歯を折ったり(火薬の薬包紙を食い破れない)、替え玉を雇ったり、医者を買収して偽診断書を作るなどということが普通に起こっていたようです。身体を兵士として不適格にするため、発泡薬で腕や足の皮膚を傷つけた後、ヒ素を溶かした湿布を当てて筋肉を麻痺させたということまであったようです。また、徴兵のくじに当たってしまった男たちは入営初日で1割も脱走したり、徴兵される者たちが暴動を起こして竜騎兵部隊と衝突したりということまで起きています。そういった感情を解さないのが天才ナポレオンの天才たるゆえんなのでしょう。
 これがフランスの衛星国となればことは尚更ひどかったでしょう。「ナポレオンのせいで物価が上がって大変なのに、さらには戦争に行けと!ふざけんな!」と怒るのが当然です。なんの為に戦っているのやら……。ナポレオンの大陸軍には衛星国からかき集められた兵士も多くいましたから、彼らのやる気がないのも当然の成り行きでしょう。例外的に、「ポーランド独立の為にロシアを倒そう!」というワルシャワ公国の兵士たちは非常に戦意が高かったのですが。彼らは祖国を分割した宿敵に一泡吹かせるべくやる気満々でした。さらに、ナポレオン直属の近衛兵たちも士気が高く、この戦争を通して多くのピンチで大活躍しました。
 こうして集まった大陸軍の兵士たちの内訳は次の通りです。この数字には諸説ありますがとりあえず以下の数字をあげておきましょう。

フランス兵 450,000
ポーランド兵 95,000
ドイツ兵 90,000
イタリア兵 25,000
スイス兵 12,800
スペイン兵 4,800
クロアチア兵 3,500
ポルトガル兵 2,000

 この大軍隊に対して、ロシアは治安維持にスウェーデンやオスマン帝国の力を借りたり、民兵やコサック兵を大量にかき集めて戦争を戦っていきます。特に、武器の不足から戦利品として飾りとなっていた17世紀のオスマン帝国の大砲すら民兵部隊では使われていたそうです。民兵だけで、数十万人もの兵士がかき集められ、コサック兵90,000や正規兵を合わせると大陸軍を大幅に超える兵力を9月ごろまでに揃えることに成功します。ナポレオンの侵攻が1812年の6月ですから、およそ3ヶ月ほどでこれほどの大動員を行ったということになります。コサック兵や民兵はフランス軍の補給や小さい部隊を常に脅かし続けました。特にコサック兵はその精強さで有名で、騎兵としての機動力を生かした補給路の襲撃で活躍しました。フランス兵とは違い、狩猟に慣れており食料の調達にも長けていたのです。
 また、よく言われるロシア人の素朴さから来る民衆の戦意の高さも見逃せません。戦争で略奪を受け畑は荒らされ、彼らは「オラたちの畑を荒らすな!許さねえだ!」と言わんばかりに時折フランス兵を襲撃して殺害することもありました。もっとも、民衆も一枚岩ではなくフランス軍に物資を売って儲ける者もいました。

 この戦争でナポレオンが考えていたのは「緒戦でロシア軍と決戦を行って、決定的勝利を収めてロシア軍の戦意を削いで降伏させる」ことにあったようです。この方針はロシア軍も同じく決戦を望むか、もしくはそういう状況に追い込まれてしまったときにのみ有効となります。しかし、ロシア軍は開戦の日から有名な焦土戦術をとって慌てて逃げ出していきました。この退却が作戦なのか、それともナポレオンが怖いという理由から起こったものなのかというのは不明です。ロシア軍も一枚岩ではありません。ロシア第1軍の指揮官バルクライ・ド・トーリは焦土戦術の推進者であったのに対し、第2軍のバグラチオンは主戦派でした。バグラチオンはもともと激しい気性の持ち主であったためか、ド・トーリの参謀長に激しく抗議したほどです。
 ともあれ、ロシア軍は一日60kmというとんでもないスピードで退却したために、早く決戦を挑みたいフランス軍は強行軍を行います。実は、往路の強行軍だけで兵力の半数以上を、しかも最初の2ヶ月ほどで失っているのです。というのも、夏のロシアというのは案外暑くて(大陸性気候なので)、強行軍が兵士たちの体力をじわじわ奪うからです。内陸ですから新鮮な水もなくのどの渇きに苦しめられました。信じられませんが、一説によると遠征2日目で早くも数万人の落伍者を出してしまったと言います。もちろん、馬も疲れて1kmの間に少なくとも50頭、一説にはその倍が倒れてしまいました。さらにはものすごい砂埃が舞い上がり(運動会を想像してください)全く前が見えなかったようです。さらには自殺者も確認されるだけで数百人規模で出たようです。
 つまり、冬将軍よりも「夏将軍」の方が、兵士たちを多く落伍させてしまったのです。

 こんな幸先の悪いスタートを切ってしまった大陸軍はどうなるのでしょうか?次回に続きます。
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Posted on 2011/05/28 Sat. 22:07 [edit]

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